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『天台霊応図本伝集』に関する一考察 |
 
p. 183 提要日本天台宗宗典刊行会編纂の『伝教大師全集』の第四巻の中に、伝教大師最澄が編集したと伝えられる文集――『天台霊応図本伝集』が収められている。この文集は、元十巻本であったと思われるが、現行本はいずれも上下に分けられる二巻本である。下巻の中に、それぞれ、作者や文体を異にする四つの文献が収められているが、そのうちの一篇が「天台大師略伝」と題されている。この「天台大師略伝」は、すなわち本論文で取り上げられる主題である。 「天台大師略伝」という文献について、多くのことが知られてこなかった。例えば、その作者も不明であり、更に、「天台大師略伝」という名称が目次に見えるものの、本文に当たる内容が現行本に見当たらないと考えられてきたのである。そこで、本論文は、『天台霊応図本伝集』の内容に対する比較と分析を慎重に進めることによって、本来「天台大師略伝」に相当する文献内容を『天台霊応図本伝集』の中から見出そうとした。いったん、内容の確認に成功すると、その内容に基づいて、本文献の原作者も次第に判明でき、更にその文献が如何なるルートで日本に伝来して、『天台霊応図本伝集』の中に収録されるに至ったのかも推測できると考えられる。このような考察を通して、中国唐代成立の資料を温存した『天台霊応図本伝集』に対する注目を呼びかけることができると幸いである。 關鍵詞:1.天台霊応図本伝集 2.天台大師略伝 3.智顗 4.道宣 5.最澄 p. 184 【目次】
p. 185 はじめに『伝教大師全集』(以下『伝全』と略す)第四巻に、『天台霊応図本伝集』(以下『霊応伝』と略す)という書が収められている。『霊応伝』はもともと十巻構成の書であったと伝えられているが、現行本はいずれも二巻のみの残卷である。その第一巻には、孫興公(孫綽、314-371)「遊天台山賦」と章安灌頂(561-632)「天台山国清寺智者大師別伝」とが載せてあり、第二巻には、①顔真卿(708-784)[1]「智者大師伝」、②道澄[2]「智者大師述讃〔并〕序」、③「天台大師略伝」、④曇羿[3]「国清寺智者大師影堂記」(以下「影堂記」と略す)といった四種の文献が収録されている。 その中、本論文で取り上げるのは、『霊応伝』第二巻に収められた「天台大師略伝」(以下「略伝」と略す)である。『霊応伝』所収の文献は、それぞれの著者や文体などを異にしているところに特徴があるが、その中で、「略伝」が特に注目されるのは、著者が未詳であることだけではなく、「天台大師略伝」という題が目次にのみ示され、本文は見当たらないからである。『伝全』本では、「略伝」の前の「智者大師述讃并序」と題される文に引き続き、すぐに「略伝」の次の文である「国清寺智者大師影堂記」が現れ、『伝全』本の体裁を見る限り、「天台大師略伝」の本文は欠落しているのである。しかし、果たしてそうなのであろうか。本論文においては、この問題についての解答を試みる。 論述は概ね以下の基礎作業より構築される。すなわち、先ずは『霊応伝』 第一、「天台霊応伝図」と『天台霊応図本伝集』紀元804年、伝教大師最澄(766-822)は入唐し、天台山国清寺所蔵の天台霊応図と呼ばれる絵画の模本を入手、それを日本に齎したと伝えられる。その伝来記録は、最澄の『傳教大師將來台州録』[4]「進官録上表」[5]、特にその目録本文に「天台山智者大師靈應圖一張」[6]と明記されている。けれども、この絵画に関する情報は、885年成立の安然『諸阿闍梨真言密教部類總録』[7]の記載[8]を最後にして、完全に絶たれてしまうこととなる。現在でも唯一、絵の内容を髣髴とさせてくれるものは、最澄編と伝えられる『本伝集』という文集である。 『本伝集』は元、題目の通り、天台霊応図に附された、いわば解説書の役割を果たす文集であったようであり、その絵の内容に関して、本書の序文は以下のように記している。 今圖像者、天台智者霊応之図也。模国清蔵本、写貞元仲冬。城則隋都.陳京、寺則国清.玉泉。加以山称天台.青溪、江乃揚子.臨海。其峰石橋.瀑布、造化所造。其槌金地.銀地、兩師所居。墜松門松、大風不韻。渓水江水、大雨不漲。奇哉、馬馬不洗、其毛尚潔。人人不食、 其身猶肥。梵僧唐僧、或行或坐。漢男秦女、臥室立門。不出庭戸、普知天下、其謂斯也。 これによれば、天台霊応図とは、天台智者、即ち智顗(538-597)にまつわる物語を具現化した絵画のように思われる。そして、智顗の生涯、または師の滅後における国清寺の建立などを概括するために、時代的には陳隋の両朝、空間的には南の金陵(陳京)より北の長安(隋都)に亘る場面、特に天台山などを中心とした一連の場面が描かれている様子が伺える。 これだけの豊富な内容を収めるためには、大師の生涯を象徴する典型的な出来事だけを、そしてかなり抽象的な手法で描写する必要があったであろうと想定される。したがって、後世の人に個の絵を理解させるためには、文章による解説を附する必要性が生じたのであろう。前文に引き続いて、 然圖像略畫、不傳難解。所以略集本勒成十卷、號曰「靈應本傳集」、以副「應圖」、流布來緣。伏願令一覽者、萌三德性、令兩看者昇一乘車。但此傳數本、廣略不同。孟子多疑、悉存眾本。冀莫厭繁重、讚佛讚人、人讚功重。是以聚我師德、敬繫來緣。云爾。 とある。このように、霊応図は、解説しなければ、圖像だけでは理解しにくいであろうという配慮から生まれたのが『本伝集』であった。編集者が智者大師の伝記資料を、おそらく可能な限り集めて十巻の書物にまとめあげ、それを「靈應本傳集」と名づけたことがわかる。そして、これらの資料には、分量の大きいものもあれば、短篇のものもあり、互いの内容が重複する部分も少なくない。しかしながら、霊応図そのものが失われた現在では、『本伝集』編集者の「聚我師德、敬繫來緣」という敬虔な願いは、文字で絵の内容を伝えると共に、貴重な唐代の文献を伝承させた、という意味では実ったと言えよう。本書の日本における流伝に関しては、914年に成立した玄日編『天台宗章疏』[9]にみえる「天台靈應傳一卷(傳教述)」[10]という記載が最も古い。 『本伝集』には七つの写本の存在が知られている。
このうち、6は『伝全』本が校定する際に用いた底本であり、1、3、7はその対校本であるが、4は再刊時に使われた対校本である。[16] 第二、「天台大師略伝」の本文『霊応伝』巻二の目次[17]によれば、顔真卿「智者大師伝」と道澄「智者大師述讃」に引き続き、「天台大師略伝」という文献が収められているはずである。しかしながら、『霊応伝』の本文を一見すると、「智者大師述讃並序」の直後に、「国清寺智者大師影堂記」の内容が続いている。そのため、現行本では、目次に題名が示されてはいるものの、本文そのものを欠いていると考えられてきたのである。[18]しかし、「略伝」は本当に伝わってこなかったのであろうか。例えば、その本文が『霊応伝』にあるほかの文献の中に紛れ込んで存在している可能性は考えられないのであろうか。つまり、「略伝」の前後に位置する文献の中に、文脈的に不自然な部分は存在しないのであろうか。 実際に、「略伝」の直前にある「述讃」の文献内容に着目すると、特にその最後の部分には、内容的に、少なくとも二つの問題が含まれていると考える。本論に入る前に、まずその問題点を示しておこう。 (前略)有高足之[19]灌頂法師者、即梁朝南平王之親孫也。乃朝野鼎族、 即[20]廣貴子。奇才誕秀、超卓[21]獨【禎。生而神異、七歳辞親、日誦万言、幼讀千巻。志稽効古、悟自天發。含吐洒落、聡哲若神。儀止沖和、天縦疎朗。徳茂松竹、行潔氷霜。陶貫群経、清貞卓煢。蓄瀉瓶之徳、為法輪之上将。耳根不漏、聴覧無遺、前後補接、纔聞一遍。以紹隆作性、以匡拯為心、架之以法橋、樹之於大表。乃慨歎曰:「斯文若墜、将来可悲!」故若樹若石、録而記之、傳乎未聞、共期佛慧者也。[22] 天台大師讃: 「入胎呈瑞、降誕流光。大蘇慧發、霊鷲因彰。 戒洽陳主、香傳晋王。弁才無滞、禅定難量。 山□息孽、水族停傷。法化既普、緇門益昌。(下闕)」】 (前闕)羅尼門、照了法華、若高耀之臨幽谷、說摩訶衍、似長風之游太虚。假令文字之師千群萬衆數、尋彼妙辯、無能窮也。(下略) 鍵括弧【】で囲んだ斜体字部分(「禎、生而神異」から「緇門益昌」まで)の内容は、叡山文庫本などには見当たらないが、『伝全』本が身延山本によって欄外に補ったものである。もっとも、「述讃并序」と題される文は、本来、散文で書かれる「序文」と韻文で作られる「讃文」から構成されるものであり、讃文が欠けると、文体的に不完全なものになる。これが、筆者が指摘しておきたい第一の問題であるが、但し、この問題は、身延山本によって欠如部分の存在が確認できたため、p. 191 それが、内容上の問題ではなく、写本の欠陥によるものであることが判明した。他の写本では欠落した内容を補足してくれる身延山本は、比較的、早期に成立した重要な写本であると言え、それによって補完される文章は、欄外ではなく、堂と本文に加えてもよかろう。 こうして、「述讃」の内容は改めて補充されることができたが、その結果、第二の問題が浮上してくることになる。それは、前述の讃文に続く文章が、何故か、「[陀」羅尼門、照了法華、若高耀之臨幽谷;説摩訶衍、似長風之游太虚」云という散文の形式を取って現われることである。それは、文体的に許されるスタイルでもなければ、文脈的にも不自然な展開と考える。[23]これは、例外的に許される文体なのであろうか。あるいは、そもそも身延山本から補足すべき性質の文章ではなかったのであろうか。 ここで、もう一つの、つまり第三の可能性は考えられないであろうか。すなわち、「述讃」の韻文は最後の部分を欠き、その部分を含む写本の頁が脱落した可能性である。しかも、この脱落によって失われたのは、「述讃」の韻文の末尾だけではなく、実は次の文献、つまり「略伝」の文頭部分も共に失くされた、と考える。したがって、讃文に続くように見えた、前述の「羅尼門、照了法華、若高耀之臨幽谷」云の文章は欠落した頁の直後に相当し、本文が逸失したと思われてきた「略伝」の文である可能性がある。 第三、「天台大師略伝」と『大唐内典録』そこで、「述讃」の散文そのものを検討したところ、その内容は、『続高僧伝』[24]などの仏教史伝の著者として名高い道宣(596-667)の『大唐内典録』[25]巻五に見える智者の伝記[26]と極めて類似していることが判明したのである。両者の内容的異同を示すために、『霊応伝』の該当箇所、即ち「述讃」の韻文の直後から次の「影堂記」に入るまでの部分と『大唐内典録』
p. 193 両者を比較すると、字句の出入りはあるものの、ほぼ同内容の文章であることは明確である。つまり、『霊応伝』における「述讃」の直後から、「影堂記」までの間に存在する散文は、『大唐内典録』の智者の伝記と内容的に一致するものである、と認められよう。先に、筆者は『霊応伝』所収の「述讃」末尾には二つの問題が存在すると指摘した。その上で、この種の問題、すなわち、文章の形式上、及び、文脈上の問題が生ずる原因として三つの可能性を考えたのであるが、ここに至って、第三の可能性、つまり、写本の欠落によって「述讃」と「略伝」の境界が曖昧になってしまった可能性が高まった、と言えよう。「述讃」と「略伝」との内容が混淆されたのは、『霊応伝』の写本が流伝していく中で、「述讃」の末尾から「略伝」の冒頭にわたる部分が脱落したことに起因する、と考えれば、一応の説明はつくのではなかろうか。現存最古と思われる身延山藏『霊応伝』の残本[31]には、「述讃」の讃文が一部保存されているが、写本自体がそこまでで切れているため、それに続く内容は確認できないのが現状である。 第四、「天台大師略伝」と『天台山六祖略伝』道宣『続高僧伝』習禅篇所収の「智者伝」と較べると、『大唐内典録』所収の智者の伝記はほとんど注目されてこなかったが。では、『大唐内典録』の智者の伝記本文と『霊応伝』に採録された文章との関係は如何なるものであろうか。つまり、「略伝」は直接『大唐内典録』から抄出してから『霊応伝』に録されることになったのか、それとも両者を媒介する別の文献が存在していたのであろうか。 そこで、『霊応伝』は伝統的には最澄が集成したものとされているため、最澄の将来典籍目録の中に、「略伝」、或いはそれを一部に含む文献が見出せるかどうか、調査すべく、『台州録』[32]と『越州録』[33]を調べたところ、
ところが、『霊応伝』所収の「天台大師略伝」が道宣の著作であることが判明したため、この「略伝」が『天台山六祖略伝』の一部をなしていた、という可能性も浮かび上がってくる。もしそうであったとすれば、『天台山六祖略伝』 次に、『天台山六祖略伝』の編集者は、智顗などの略伝を、『大唐内典録』からかなり機械的に抄出したこともわかる。なぜなら、例えば、『大唐内典録』所収の智者の伝記は、智顗の著作を収録した後に、その著者である智顗について簡略に紹介するために附されたものである。そのため、伝記の文中に「為大機感、著述茲文」という表現が見られるが、特に「茲文(これらの文)」とは、前に録した著作群を指して言うのである。しかし、『霊応伝』「略伝」における「茲文」という言葉は、特に指示する対象もなく虚しく存在している。この現象は、『霊応伝』より先立って成立した『天台山六祖略伝』は、『大唐内典録』を参照して智者の略伝を抽出する際に、智顗の著作までは録さなかったにも関わらず、合わせて略伝の内容を修正するまでに至らなかったことに起因するものであろう。但し、この機械的な編集方法のおかげで、『大唐内典録』の原文に基づき「略伝」の失われた冒頭部分を補うことは可能になると考えられる。これによって、『霊応伝』第二巻の内容はほぼ再現できることになるであろう。 結論以上、現行本『天台霊応図本伝集』に含まれる文献内容の混淆錯誤を指摘したうえで、逸失したと思われてきた「天台大師略伝」の内容をその中で確定することを試みた。その結果、「略伝」に相当する部分が道宣『大唐内典録』の智顗の伝記原文とほぼ一致することが判明した。更に、それが元最澄将来本における『天台山六祖略伝』の一部をなしていたと推測し、最後に、『天台山六祖略伝』の機械的な編集仕方の故に、『大唐内典録』によって『霊応伝』「略伝」を補完する方法を提案する、と言う順に論述を進めてきた。 『霊応伝』は最澄が集成したものではないという偽撰説も呈示されることになったが、しかし、同書には貴重な中国唐代文献が保存されているという重要性は一層強まったと考える。今後、その文献内容に即して詳細な検証を行い、そのテキスト自体の価値を見直していく必要もあると考える。ここで、 p. 197 【附録】智者大師述讃[并]序第二 貝山沙門道澄述書云、「不登峻峰者不知天之高、不瞰深谷者焉測地之厚」。故挹洪波方鑒滄溟之叵巨量、採瑤者乃察驪珠之可珍。故五百曰賢、千齡号聖者、即我智者大師菩薩之降靈也。秀異特出、天挺孤標、裱裱落落、雋氣昂藏。超拔雄軒、鑒徹過人。思入玄微、口辨天逸。貞素自居、高談適時。可謂檀林萬尋、耆峰千刃。實三宝之問表、作四生之梯筏。雖懷寶窮軸、而声[38]振京邕、匿跡幽壑、而德惠照彰。故宣帝降敕云、「禪師佛法雄傑、時匠所宗、訓兼道俗、國之望也。宜割始豐縣調、以充衆費、給兩戸民、用給薪水。」是以陳主七徵、隋王四請。堂堂乎、為二國之寶。兟兟乎、作四帝之師。故皇極以下、咸資戒範、爰及朝野、並託舟航。故使泊泊[39]法流、咸滋有地、暉暉佛日、普照無限。曽[40]於光宅寺講仁經、帝者親筵、敘玄義訖、主上致敬、俯仰三禮、以彰敬重。時僧正恵暅執香[41]鑪賀席曰、「國十餘齊、身當四講、分文析理、謂得其門。今日出星收、見巧知陋。由來[42]諍[43]競不足、即座肅穆有餘。七夜恬靜、千枝華耀、皆法主之力也。」帝又因此捨身、僧得大施。帝又請於太[44]極殿開『智度論』題、皇儲以下、公卿畢集。即有僧正恵夕.僧都恵曠.長干僧恵辨等、並奉勅撃揚。難似冬氷峨峨若[45]結、解如夏日[46]赫赫能消。天子欣然、百僚[47]盡敬。萬乘屈腠、稱贊希有。盛矣!夷矣![48]帝又於曠徳殿謝云、 其姓氏者、即陳胡公之冑緒、乃才華望族[57]、衣冠仕流。其父即散騎常侍.益陽縣開國侯、惠任道風、和得天性、白雪澄[58]操、明月照心。沖慈天資、英斷神與。學通經傳、談吐絶倫、武策運籌、偏多勇[59]決。即梁湘[60]東王之賓客也。 談其生也、浮五雲而託陰、照神光而誕生。目現雙瞳、眉分八彩、蓋聖人之器宇也。其德業也、幽襟叵測、妙辨難窮、悟[61]自生知真非天發。故思大師歎曰、「昔共靈山同聽法華、[62]宿緣所追、今復來矣。」禁律則冰霜逾潔、安禪則功德如林。普賢行門、深入實際、證法華三昧及旋陀羅尼、三業霜明、獲六根清淨、德超四果、行越三衹。故銑公敘云、「覺[63]如南岳惠思、天台智者、並位鄰得忍、解貫總持、福惠二嚴、兼利具足、精誠絕代、神異動人。 若乃古德撰制各檀科條、簡菊異芥、專以向得。且如笈法師十二年前後判有無相教、宗師有四時之談。師判五時不同。菩提流支有半滿之別、佛馱[67]三藏四宗之異、述光統六宗殊途。禪師則有相無相之大乘、或唯立一音之教旨、莫不綜練取捨、參校異同、究其根條、盡其源流。国使[68]凡玉珠類、涇渭分流、剖析毫厘、發明幽遠、有濫国剪[69]、貞實同導、故寸長無遺、片善亦舉。此大師之高鑒也。若乃盡寫眾經一十五藏、深海以掉波瀾。度一萬四千餘人、紹隆佛種。造寺三十五所、以廣招提。造像三十餘萬軀、生靈瞻仰。況復芙蓉大江[70]三百餘[71]里、江滬溪梁六十三所、秋水一漲、巨細填梁、晝夜二潮、嗷吸滿滬、髗骨成岳、蠅蛆若雷。非但〔水性〕可悲、亦恐痛舟人濫殞。大師愍此、而運普慈、詔合境[72]漁人、改惡從善、一時一時永捨為放生之池、一日所濟巨億萬數、豈以十千而已。此大師之洪業者[73]、若感通適化、或異跡發人、其途實繁、良難具敘。且三十餘年、雙弘定惠[74]、弗蓄文字、辨說無窮、雄雄法音[75]、洋洋溢耳。記疏山積、學徒雲湧、昇堂入室者、難可備陳。 p. 200 有高足之[76]灌頂法師者、即梁朝南平王之親孫也。乃朝野鼎族、即[77]廣貴子。奇才誕秀、超貞[78]獨〔生而神異、七歳辞親、日誦万言、幼讀千巻、志稽効古、悟自天發、含吐洒落、聡哲若神、儀止沖和、天縦疎朗、徳茂松竹、行潔氷霜、陶貫群経、清貞卓煢、蓄瀉瓶之徳、為法輪之上将。耳根不漏、聴覧無遺、前後補接、纔聞一遍、以紹隆作性、以匡拯為心、架之以法橋、樹之於大表、乃慨歎曰:斯文若墜、将来可悲、故若樹若石、録而記之、傳乎未聞、共期佛慧者也。 天台大師讃: 天台大師略伝第三 〔終南山律師道宣撰〕天台山沙門釋智顗……俗縁陳氏、荊南人。幼冥禎感、夙稟玄風。蘊道天台、尋師衡嶺。雙弘定慧、圓照一乘。受四教於神僧、傳三觀於上徳。入法華三昧、證陀]羅尼門、照了法華、若高耀之臨幽谷、說摩訶衍、似長風之游太虚。假令文字之[79]師千[80]群萬衆數、尋彼妙辯、無能窮也。自發軫南岳、弘道金陵、託業玉泉、遁跡台嶺、三十餘載[81]、盛[82]弘一乘.止觀.禪門。利益惟遠、義同指月、不滯筌蹄。或於一法中、演無量義、攝無量義、還入一心、實觀玄微、清辨無盡。由是四方法侶、請益如林、若定若惠[83]、傳燈逾廣、為大機感、著述茲文、理會無生、宗歸一極。禪門止觀、及法華玄、但約觀心敷演、可謂行〔人之心〕鏡、巨夜之明燈、自古觀門未之加矣。陳隋兩帝、師為國寶、尊人重法、委託舟航、捨寶捨身、詳諸別傳焉。 p. 201 【テキスト】T 『大正新脩大蔵経』 『伝全』 『伝教大師全集』(全四巻)、1912年、天台宗宗典刊行会編纂発行 『伝教大師全集』(全五卷、別附「索引」一巻)、1975年、世界聖典刊行協会覆刻比叡山圖書刊行版 『血脈譜』 最澄『内証仏法相承血脈譜』、『伝教大師全集』(1912年版第二卷、頁513-562)所収 『天台法華宗学生式問答』(八巻)、『伝教大師全集』(1912年版第三卷、頁731-810)所収 『霊応伝』 最澄『天台霊応図本伝集』(二巻)、『伝教大師全集』(1975年版第三卷、頁163-226)所収 参照写本: 全二巻(2冊)、書写年代不詳[84](識語無)、叡山文庫真如蔵書 全二巻(1冊)、叡山文庫横川別当代蔵書、享保癸卯(1723)秋九月、行光沖.寂天写 全二巻(1冊)、叡山文庫無動寺蔵書、文化十二年乙亥(1815)八月、台嶽法曼院大僧都真超以善峰寺谷之坊之本令書写[85] 【参考文献】清田寂雲〔1980〕「天台大師別伝について」、『天台学報』22、26-33。 清田寂天〔2001〕「天台霊応図本傳集真偽考」、『叡山学院研究紀要』23、45-52。 桑谷裕顕〔2000〕「最澄将来の湛然の伝記資料について」、『天台学報』43、89-103。 《天臺靈應圖本傳集》的研究釋孝順(池麗梅) 日本東京大學人文社會系研究科博士課程 p. 202 提要相傳為日本劉華高僧最澄所編纂的《天臺靈應圖本傳集》,目前被收錄於日本天台宗宗典刊行會所編纂的《傳教大師全集》第四巻。該書據云原為十巻本,但現行諸本皆僅殘餘二卷,而其中的第二卷則收錄了作者既不同、文體也各異的四種文獻。本論文所論述的正是四種文獻的第三篇<天臺大師略傳>。 關於這一篇<天臺大師略傳>,至今為止對它的認知是作者不詳,僅存目次,而且其本文似乎已經王佚。但是本論文透過審慎地分析、對比、考察等作業,嘗試確認<天臺大師略傳>的本文及其資料來源、原作者和東傳日本的原貌,而重新呼籲重視這部保存了貴重文獻的《天臺靈應圖本傳集》。 關鍵詞:1.天臺靈應圖本傳集 2.天臺大師略傳 3.智顗 4.道宣 5.最澄 [1] 顔真卿、字清臣、京兆人、著作は『顔魯公文集』に録される。伝記は『新唐書』153などに見える。 [2] 唐代成立の「智者大師讃」に関する記録は少なく、『台州録』に一箇所だけ、「天台山智者大師讚一卷(三紙)」(T55、1056a21-22)という記載が見えるに過ぎない。目録には撰述者の名前が記されていないが、このほかには同種の文献の伝来記録が以後にも見られないため、『台州録』でいう「天台山智者大師讚一卷」と『霊応伝』にある「智者大師述讃」とが同一の文献である可能性は否定できない。また、「述讃」の著者貝山沙門道澄に関しては、『宋高僧伝』(T50、No. 2061)巻第十六「唐京師章信寺道澄傳」(806b9-25)に現われる唐僧道澄(d. 803)と同一人物なのかどうかはまだ確定できない。 [3] 伝記不詳。 [4] 『傳教大師將來台州録』(T55、No.2159)、以下、『台州録』と略す。 [5] 「天台智者大師靈應圖一張」(T55, 1055b3)とある。 [6] T55、1056a18。 [7] T55、No.2176。 [8] 「天台大師感得聖僧影一鋪(三副綵色仁澄)」(T55, 1132b10);「天台山智者大師靈應圖一張(有感神僧影六副九尺澄)」(T55, 1132b11)。 [9] T55、No. 2178。 [10] T55、1137a22 [11] T55、No. 2183。 [12] T55、1162c2。 [13] T55、1164b24。 [14] 『伝全』では「全二巻」とする。ところで、清田寂雲[1980]32頁によれば、身延山本『本伝集』は現在では、「全二巻でなく巻二の一巻のみであり、つまりロ本(筆者注:身延山本を指す)には章安撰の別伝は含まれず、顔真卿撰の傳一巻と、貝山道澄述の智者大師述讃序第二との二篇のみ」であると明らかにした。よって、ここでは「第二巻」と改めた。 [15] 叡山文庫では、この写本の蔵書カードに「江戸初期」と注記されている。 [16] 『伝全』第四巻、225頁。これらの写本の中で、筆者が実際に接触できたのは叡山文庫所蔵の2、5と6の三種の写本だけである。 [17] 目次には、「智者大師伝一、智者大師述讃二、天台大師略伝三、智者大師影堂記四」とある。 [18] たとえば、清田寂天[2001]頁50は、「書名のみ記されその本文を欠いている。宗祖将来目録には、相当する書名は見あたらない」とする。 [19] 「之」、横川本と無動寺本は無。 [20] 「即」、真如蔵本では「郎」とする。 [21] 「卓」、『伝全』は「貞」とし、横川本と無動寺本では「直」とし、身延本に従って「卓」とした。 [22] 「乃慨歎曰…共期佛慧者也」の内容は、灌頂の『妙法蓮華經玄義』(T33, No. 1716)「法華私記縁起」に見える「斯言若墜、將來可悲!涅槃明若樹若石」今經稱若田若里、聿遵聖典、書而傳之。玄、文各十卷、或以經論誠言、符此深妙、或標諸師異解、驗彼非圓。後代行者、知甘露門之在茲!」(681a20-24)という内容を要約したものと考えられる。現行本『法華玄義』では、「斯言若墜」となっているが、湛然『法華文句記』(T34、No. 1719)に「玄文序云、斯文若墜、將來可悲」となっており、「述讃」の内容と一致している。『法華文句記』は、更に玄序を引用して、「後代行者、知甘露門之在茲、共期佛慧!」(151b18-19)とあり、現行本『法華玄義』より、「共期佛慧」という一句が多く、これもまた「述讃」の内容と重なることになっている。 [23] 問題とされる部分の散文の内容は、「述讃」の序文の叙述とは内容的に重なる部分が多く、それが讃文の後に再び取り上げられることは、「述讃」の全体的文脈からみて極めて不自然である。 [24] T50、No. 2060。 [25] T55、No. 2149。 [26] T55、284b2-19。 [27] 「之」、横川本と無動寺本はないが、真如藏本によって補った。 [28] 「千」、横川本と無動寺本では「子」とされるが、真如藏本に従った。 [29] 「載」、横川本と無動寺本では「歳」とされるが、真如藏本に従った。 [30] 「盛」、真如蔵本にはないが、ほかの諸本によって補った。 [31] 『伝全』では、欄外に補った一文は身延本によったとする。しかし、清田寂雲[1980]頁32は、身延山本の「述讃」が「全集二二二頁欄外の初の六行目までで、次の天台大師讃以下は缺けている」と指摘しており、身延山本の1980年当時における状況が確認できるが、身延山本の破損は、『伝全』の刊行当時(1912)よりも、一層進んでいるようである。 [32] T55、No. 2159。 [33] T55、No. 2160。 [34] 唯一著録された個人の略伝は、『越州録』に見える「天台第七祖智度和尚略傳一卷(沙門志明集)」(T55、1059a5)だけである。 [35] T55、1056a27。 [36] 『内証仏法相承血脈譜』(『伝全』二、頁548-549)は、『六祖略伝』における智威、慧威、玄朗の略伝を言及しており、また、『天台法華宗学生式問答』巻七(『伝全』三、頁789)に現われる智威と慧威の伝記が『天台六祖略伝』によっていることは、桑谷裕顕〔2000〕(頁96、頁102)が明かにしている。 [37] 何故なら、『台州録』には「天台山第五祖左溪和尚傳一卷」(T55、1056a28)や「天台山第六祖荊溪和尚碑一卷」(T55、1056b1)などの記載が存在し、このことから、最澄入唐の頃の天台山では、左溪玄朗が第五祖、荊渓湛然が第六祖と見做されており、いわゆる九祖説ではなく、六祖説が主流であったと推測できるからである。 [38] 「声」、真如蔵本では「生」とする。 [39] 「泊泊」、横川本と無動寺本では「滔滔」とする。 [40] 「曽」、真如蔵は無。 [41] 「香」、横川本と無動寺本は無。 [42] 「由来」、横川本と無動寺本では「従来」とする。 [43] 「諍」、横川本と無動寺本では「浄」とする。 [44] ">「太」、無動寺本は「大」とする。 [45] 「若」、横川本と無動寺本では「失」とする。 [46] 「日」、横川本は無。 [47] 「僚」、横川本と無動寺本では「寮」とする。 [48] 「盛矣夷矣」、真如蔵本は無。 [49] 「逮」、無動寺本は「建」とする。 [50] 横川本と無動寺本では「瓦官寺」とする。 [51] 「華」、真如蔵本では「花」とする。 [52] 「僚」、横川本と無動寺本では「寮」とする。 [53] 「鴣」、横川本と無動寺本では「鴻」とする。 [54] 「八河」、真如蔵本では「八實」とする。 [55] 「比」、無動寺本は「此」とする。 [56] 「使」、真如蔵本では「便」とする。 [57] 「族」、真如蔵本では「挨」とする。 [58] 「澄」、横川本と無動寺本では「凝」とする。 [59] 「勇」、横川本と無動寺本では「慢」とする。 [60] 「湘」、真如蔵本では「相」とする。 [61] 「悟」、真如蔵本無。 [62] 「華」、真如蔵本では「花」とする。以下皆同。 [63] 「覚」、横川本と無動寺本では「至」とする。 [64] 「人所」、横川本と無動寺本では「之此」とする。 [65] 「彝」、横川本と無動寺本では「並」とする。 [66] 「函」、横川本と無動寺本では「国」とする。 [67] 「駄」、横川本と無動寺本では「馳」とする。 [68] 「使」、真如蔵本では「便」とする。 [69] 「剪」、横川本と無動寺本では「煎」とする。 [70] 「江」、横川本と無動寺本では「海」とする。 [71] 「餘」、横川本と無動寺本では「億」とする。 [72] 「合境」、横川本と無動寺本では無。 [73] 「者」、横川本と無動寺本では「也」とする。 [74] 「恵」、横川本と無動寺本では「慧」とする。 [75] 「法音」、真如蔵本では「法喜」とする。 [76] 「之」、横川本と無動寺本は無。 [77] 「即」、真如蔵本では「郎」とする。 [78] 「貞」、横川本と無動寺本では「直」とする。 [79] 「之」、横川本と無動寺本は無。 [80] 「千」、横川本と無動寺本では「子」とする。 [81] 「載」、横川本と無動寺本では「歳」とする。 [82] 「盛」、真如蔵本は無。 [83] 「恵」、横川本と無動寺本では「慧」とする。 [84] 叡山文庫の蔵書カードには、「江戸初期」と注記されている。 [85] 同写本の巻末識語によると、真超の抄本は、西山善峰寺谷坊圓徴(西谷行光坊第二十六世)の抄本〔延享元年(1744)十一月下旬に、淵沖.法印写本を元に抄写した写本〕に基づいており、この系統の写本は、享保癸卯秋九月に行光坊の淵沖.寂天による抄写本に遡られる、とされる。従って、これは、⑥叡山文庫横川別当代蔵の本の系統に属していることになる。 |